ヨハネ2章

2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。

 それから三日目は、ナタナエルに対する証しの後、三日目です。イエス様が神であリ、御使いが仕える方であることを証ししてから三日目です。十一節には、弟子たちはイエスを信じたと記されています。イエスという人が神であることをその業を通して間違いないと信じたのです。

2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。

2:3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。

 母は、招待されていたのですが、婚礼の最中にぶどう酒がなくなったのを見て、イエス様にそれを告げました。それ以外のことは記されていません。母の心情がどうであったとか、花婿の慌てぶりなどについて考える必要はないのです。それは、書かれていないからです。

 ぶどう酒は、婚礼の喜びの席で、さらに喜びを増すものです。

士師記

9:13 しかし、ぶどうの木は彼らに言った。『私は、神と人を喜ばせる私の新しいぶどう酒を捨て置いて、木々の上にそよぐために行かなければならないのだろうか。』

詩篇

104:15 ぶどう酒は人の心を喜ばせパンは人の心を支えます。

 しかし、そのぶどう酒が尽きました。それは、人が備えたものです。花婿が喜びのために用意しました。

 これは、人の備えた喜びは、それが自分のためであれ、他の人のためのものであれ、尽きることを表しています。人は、老年を迎え、なんの喜びもないという日を迎えるのです。

 

伝道者

12:1 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

--

 なんの喜びもないと言う年月は、年老いたときのことです。死ぬ時全ては失われますが、既にその前に喜びが失われる時が来るのです。それは、体が効かなくなるからです。喜びを味わう器官の機能が失われてくるからです。

 さて、母は、イエス様がなんとかしてくださることを信じていました。給仕の者に言い送った内容からも、イエス様が事をなしてくださると信じています。しかし、母の求めたことは、人の喜びが尽きることをなんとかしてくださることでした。

2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」

 母の言葉に対して、イエス様は、そのことに関して、母はイエス様と「何の関係がありますか。」と言われました。続く言葉として「わたしの時」と言われ、イエス様が事をなすにしても、それは、父の権威によってなす業であって、人の求めに基づくものではないことを示されました。神が、御自分の業として事をなすのです。

2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」

 母は、イエス様が、御自分がよしとする時に事をなすと信じたので、給仕の者たちにこのように言ったのです。彼女は、結果がどうなるかはわかりませんでしたが、イエス様を信じていました。

2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。

 そこに置いてあったのは、石の水瓶でした。その数は、六つで、人を表しています。その容量は、合わせて約六百リットルです。

2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。

 水瓶は、人の心を表しています。水は、御言葉の比喩です。水で満たすことは、人がその心に御言葉を受け入れることを表しています。縁までと命じられましたが、自分の思いや考えを全部捨てて、御言葉だけを受け入れることを表してます。

2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。

 縁までいっぱいにした時、それはぶどう酒になりました。

2:9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、

2:10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」

 そのぶどう酒は、良いぶどう酒となっていました。これは、主が与えられる喜びを表しています。御言葉を受け入れることでもたらされる喜びなのです。それは、自分のうちにある願いや欲望によらないのです。それらを捨てて、純粋に御言葉を信じて受け入れ、御言葉だけに従うことでもたらされる喜びなのです。実は、ぶどう酒は、自分を捨てることの比喩でもあります。注ぎの供え物は、イエス様が御自分を捨てたことを表していて、それゆえに父から喜ばれ、右の座に引き上げられたのです。そのように、人も、自分を捨て、神の御心のうちだけを歩むことで真の喜びを経験することができるのです。イエス様は、父の御心を行うことを喜びとしていました。それは、父に愛されることであり、父から誉を受けることであるからです。何よりも、父の栄光が現されるからです。その喜びは、この世のものと比べることができません。質が違うのです。

 この喜びは、尽きることがありません。そして、この世話役が言い表しているように、この世の喜びは、はじめ良くても、終わりまで続くことがないのです。喜びの終わりには、むなしさが残るのです。

 人の備えるものは、尽きるし、いつまでも最高の喜びをもたらすものではない。しかし、主が備えたものは、最良の喜びをもたらします。

2:11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 これは、しるしでした。それによってご自分の栄光を現されたのです。ですから、このしるしは、神の子であることのしるしであり、弟子たちもそのように信じたのです。

2:12 その後イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。

2:13 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。

2:14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、

2:15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、

2:16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」

2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。

 イエス様は、宮の中で行われている商売を咎められました。人の利益のために動物の売り買いや両替をしていたのです。神殿の中ですから、捧げ物のための取引です。遠方の人は、お金を携えてきて、捧げ物にする動物を買い、捧げ物にするように命じられています。献金箱に入れるお金は、ユダヤの通貨である銅貨に交換してから捧げられました。ローマの通貨を銅貨に交換したのです。両替商が成り立つのは、通貨の交換の際に、手数料を取ることで利益が生まれるからです。これらのことは、捧げ物をする上ではどうしても必要なことです。それを利用して、神の宮で商売をしていたのです。

 イエス様がそれらを追い出されたのは、「わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」からです。父の家と言われ、これが神のものであることを強調されました。人間の利得のために宮が利用されることは許されないことです。

2:18 すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」

 ユダヤ人たちは、自分たちのしていたことが神の前に正しくなかったとは考えませんでした。イエス様にしるしを求めました。宮聖めをする権威について、神を父と呼んでいたことについて、しるしを求めました。

2:19 イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」

 イエス様は、この神殿を壊してみなさい。三日目によみがえらせる。と言われました。ここでは、「よみがえり」という語が使われています。この語は、イエス様がよみがえることを表す語と同じです。神殿を建て直すとは言われず、「よみがえらせル」と言われ、イエス様の死と復活について言われたことが分かります。この神殿とは、イエス様御自身でした。

 なお、神殿は、神の御子イエス様の比喩として示されています。もし、彼らが聖書の比喩を正しく理解していたのならば、イエス様の言葉の意味も理解できたのです。

2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」

 ユダヤ人たちが全く理解していないことがわかります。

2:21 しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。

2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。

 弟子たちもその時理解できませんでした。しかし、イエス様がよみがえられた時、そのことを思い出し、聖書とイエス様が言われた言葉を信じました。

2:23 過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。

 祭りの間、多くの人々がイエス様の名を信じました。それは、しるしを見たからです。名を信じたというのは、次節以降の内容から、その人々は、イエス様を心底神の御子と信じたわけではないことがわかります。その名とは、イエス様が力ある業をなすことができる方という名です。彼らは、イエス様を見て、神の子と信じ、自分の生き方を方向転換することをするまでにはなっていません。力ある方が現れたことは認めても、イエス様が神の御子であるという信仰には至っていませんでした。

2:24 しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、

2:25 人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。

 イエス様は、その人々にご自分お任せにはなりませんでした。それは、人は、自分の欲望の実現のために生きていたからです。イエス様は、人のうちにあるものをご存知でした。